笑えない男(投稿者Q氏)



 時田和夫はどこにでもいそうな、平凡なサラリーマンである。二十八歳。容姿も普通で、性格も特に変わった所はない。だがそんな彼も三年前に二歳年上の美人の妻の心を射止め、幸せな日々を送っている……はずであった。
「ただいま……」
 家賃六万円のマンションにある我が家へと帰宅した和夫は、何かに怯えるようにそそくさと靴を脱ぎ、ピンク一色に統一されたど派手な玄関から中へとあがると、気持ちを落ち着かせるように一つ大きな深呼吸をしてからリビングへのドアを開けた。
「おかえりー、和君!」
 可愛らしい声と共に、妻である美由が彼を出迎える。
 幸せな光景。それは和夫が望んだひとときのはずだった。その妻が、片目に黒のアイパッチを付けて、手にお玉ではなくサーベルを持ってさえいなければ。



「お前の奥さん、海賊でもやってるのか?」
 飲み屋でその話を和夫から聞かされた同僚の牧野は、焼き鳥の串からわざわざ肉の部分を小皿に引き抜きながら、そう問い返した。
「そんなわけないだろ。美由はそのボケに対して僕がどんな反応するかを楽しみにしてるんだから。そのためにわざわざ演劇用の小道具を知り合いから借りてるんだぞ」
「へえー、面白そうな奥さんじゃないか」
 大げさに肩を落とす和夫に対し、牧野は肉抜き作業の手を休める事なく、そう感想を述べる。店員がその作業を訝しそうに見てはいるが、彼にはあまり気にした様子はなかった。
「こっちは全然面白くないんだよ! 毎日毎日、日替わりであらゆるボケをされてさ。しかもつっこまないといじけるし。おかげで自分の家なのに気が休まらない」
 ダンッと机を両拳で叩きながら、和夫は力説する。その衝撃でせっかく引き抜いた肉片が小皿から飛び出てしまうが、牧野は特に動じずに皿からこぼれた肉片だけを和夫の前に置いてある小皿へと移していた。
「このままじゃノイローゼになりそうだ」
 和夫は悩んでいた。美由を今でも愛してはいるが、そのテンションの高さについていけない事に。
「傍から聞いてる分には楽しそうなんだが」
「それは他人事だから言える台詞だろ!」
 再び机を叩く和夫。牧野はその行動を予測していたのか、皿を手に取り避難させていた。
「実感した事がないから、何とも言えんな」
「お前も同じ境遇に立たされればすぐにわかるさ。つっこみたくもないのにつっこまなくちゃいけない生活が、どれだけ辛いのかを」
 和夫はそう言うと、コップに残っていたビールをグビグビと一気に飲み干し、まるで異世界の住人を見るかのように遠巻きに自分たちを観察している店員を呼びつけて、追加のビールを注文する。
「しかし、お前の話が本当だとして、奥さんもよくそのテンションを維持していられるな。普通その方が疲れるだろ」
 牧野がそう指摘すると、和夫はフルフルと首を二回横に振り、
「彼女は普段抑えているものが家で爆発してるんだよ。本来はお笑い大好き人間なのに、仕事では硬派な人間で通してるから」
「仕事って、奥さんどんな仕事してるんだよ」
「雑誌の編集長さ。悔しいが、稼ぎは俺たちよりも上だぞ」
 美由は単なるお笑い好きの主婦ではなく、バリバリ稼ぐキャリアウーマンだった。その彼女の本質を知る者は、仕事場にはあまりいない。
「雑誌って、お笑いのか?」
「いいや。インテリアを主に扱ってる雑誌だよ」
「……なるほど。確かにあまり笑いを求めるわけにはいかないだろうな」
 笑えるインテリア雑誌。想像するだけでも、難しいものがある。
「知的でクール。仕事場の彼女の評判がそれだ」
「で、家に帰るとテンションが高くなると」
「そういう事だよ」
 和夫は欧米風に降参のポーズを取った。この場に美由がいたのなら、お決まりのつっこみをもらう所である。しかし牧野は美由とは違うタイプの人間であるので、つっこんだりはしない。
「話は大体わかった。俺には何も手伝えない」
「あっさり見限るなよ! 親友だろ? 助けてくれよ……」
「そう言っても、俺にどうしろって言うんだ」
 他所の家庭の問題に首を突っ込むなど牧野は望んではいない。こうして愚痴を聞いてやる分にはいいが、助けを求められても困るだけであった。
「僕を連れて遠くへ逃げて」
「北極辺りに放置するぞ、この酔っ払い」
 牧野は冷たい視線と共に、和夫の提案を一蹴する。
「奥さんに直接頼めばいいだろ。もう少しテンション下げてくれって」
「でも、楽しそうにしてる彼女にそれを言うのは、あまりに可哀想な気がして」
「なんだそれ……」
 妻の楽しみを奪いたくない。相手をするのは辛いが、迷惑というわけでもない。
 つまりは、それだけ和夫は美由を愛しているという事である。
「ノロケ話かよ」
 端から真面目に相談に乗っていたつもりのない牧野であるが、それでもこの結果には馬鹿らしくなってしまっていた。妻の気分を良くするための夫の献身振りを聞かされているだけで、これでは相談にもなっていない。
「疲れるけど、嬉しそうにしてる美由を見るのは幸せなんだ」
「なら何も問題ないだろ」
「大有りだろ!? 僕が疲れてるじゃないか! 皮を切らせて肉を切り続けていたら、いつかは皮がなくなってしまう」
 牧野の頭に、小学校に置いてある人体模型のような和夫の姿が思い浮かぶ。
「……ぷっ」
「なぜ笑うんだ、牧野! 笑えないだろう、これは!」
「そ、そう言われても」
 真剣に怒る和夫の姿がどうしても人体模型に見えてしまい、牧野は笑いを堪えるのに必死だった。童顔で可愛いと表現される事の多い和夫の顔なら、小学生の受けもきっと良い事だろう。
「どうすればいいのか、親友が悩んでいるというのに……」
 怒り顔から一転落ち込む和夫に、牧野は何とか人体模型のイメージを頭から振り払うと、
「アロマセラピーでも始めたらどうだ。お前の精神が持つよう、安らげる時間も必要なんだろ?」
「おお! それはいいかもしれないな」
 牧野が適当な気持ちで言ったアドバイスに、彼が予想していた以上に和夫は好反応を返してくる。それくらい既にやっているだろうと考えていた牧野からすれば、それは驚きの返答でもあった。
「時田。お前、実は本気で困ってなかったんじゃ……」
 本当に困っているのなら自分でいろいろと打開策を模索しているはずであり、牧野が言ったような事はとっくの昔に試していなければならないはずである。
 愕然とする牧野に対し、和夫は上機嫌な様子で、
「さすが牧野だ。お前に話して良かったよ」
 そう言うと、席を立って店を出て行こうとしてしまう。
「お、おい。どこに行くんだ?」
「そろそろ美由が残業を終えて帰ってくる時間なんだ。相手をしてやらないと」
 その言葉に、牧野は確信した。和夫は、本気どころかこれっぽっちも困ってはいなかったのだと。単なる軽い愚痴で、妻への不満をぶちまけていたわけですらない。
「それじゃ。また飲みに行こうな、牧野」
 そう言って去っていく友人の背中を眺めながら、牧野は何とも言えない脱力感を覚えてしまう。
「幸せな奴……」
 おめでたい和夫の性格に、牧野の顔に自然と笑みがこぼれる。
 そして一人で飲んでいても仕方がないと、彼は店を出るためレジに向かい、
「げっ」
 明らかに自分一人分ではない額に、牧野の顔が引きつる。
 彼はそこでようやく、自分が一番笑えない状況にいた事を悟ったのだった。