そうして世界は螺旋に還る(投稿者M氏)



 石造りの薄暗い牢獄に、単調な靴音が響く。
 円形の壁を取り囲む螺旋階段を階段を降りてくるのは、一人の青年。足下すら照らしきれぬほど弱い角灯(ランタン)を無造作に提げて、ただ、降りる。
 歩を進める度に、眼下の不恰好な牢が近付く。鳥籠よりも遥かに無骨で、鉄格子よりも尚強固な楔の群れは、重く冷たく、鈍い光を反射する。譬えこの僅かな光でも。
 中では男が一人、膝を抱えていた。
 項垂れた頭は周囲の闇に溶け込むほど黒く、白亜の囚人服から伸びた四肢はそれよりも尚、青白い。筋と骨が目立つ長躯は、哀れなほど縮こまっていた。
 青年は、そこで初めて灯りを掲げる。端整な面立ちと静かな翠眼が、真っ直ぐに男を見下ろした。彼は生真面目な声で呼びかける。
「――『死神』よ」
 しかし、男は微動だにしない。代わりに、きつく抱えた体の中から、くぐもった低い声が微かに響いた。
「……殺してくれ」
 青年は慣れた様子で首を振る。ランタンの光よりも淡い髪がさらさらと揺れた。
「私には出来ない。私に『死』は滅ぼせない」
 男もそれを承知しているはずだ。頼みごとは、何度も繰り返されて最早惰性となった儀式に等しい。やはり冷淡な仕打ちに、男は漸く目を上げて呪った。
「私は『死』をもたらすが、だからといって『死』を望まないわけではない」
 常時は叡智の深淵のような灰眼が、殺意にぎらついている。抱えた体に爪が立ち、それは囚人服へ線を付けていた。もう幾度もそうしていたのだろう、服はあちこち傷んでいる。
 交換を頼むべきか、そう考えて、しかし青年は即座に撤回した。この服もすぐ不要になる。……明日にはまた、彼は美しい黒衣を纏うのだから。
 青年は、男の瞳を静かに見つめ返した。
「お前は『死』だ。故に死の願望が纏わりつくのは」
「当然だとでも」
 死神は牙を剥く。鉄格子よりも強く穿たれた楔に拳を打ちつけ、それでも青年の表情は変わらない。変わらぬ間隔で瞬き、平坦な声音をただ返す。彼に、死の恐怖は存在しない。
「どうあってもお前は孤独なのだ、死神。お前以外で、滅びぬものは世界にひとつとして存在しない」
 男もそれは十分に理解している。全ては彼を忌避して生き、全ては彼を置いて逝く。だからこそ彼は、何度も愚行を繰り返してきた。小さく嘆息し、青年は呻く。
「私の管轄から、もう誰も連れ出さないで欲しい」
「……彼女は私を愛していると」
 死神の反論に、青年は容赦無く目を伏せた。
「誰でも一度は死に焦がれる。それだけだ」
「違う!」
 男は絶叫する。角灯を下げて、青年は僅かに後退した。その直前を、男の指が掠めていく。全ては弱い光に支配された視界内のことである、姿は容易く掻き消えた。
「……彼女は私を、常に見つめていると」
 闇の向こうで声は細くなり、次第に項垂れていく。その様子は眼など無くとも、全て容易に窺える。
「誓い合ったのだ。あの柔らかな巻き毛に手を入れて尋ねると、花弁のような唇が応えてくれた。お前の下など離れ、私と共に来てくれると……愛など知らぬ、お前を捨てると――!」
 牢獄が揺れる。叩きつけられた拳に傷は付かない。彼は滅びの体現。滅びが傷付くことは無い。細長い四肢が軋むことも無い。
「お前が私達を引き裂かねば、こんな所に収容(いれ)られることも無かった!」
 男を捕らえたのは青年だった。彼女を連れ去ろうとした彼を、予測していた青年の配下によって止められたのだ。男はもう何度目か解らない烙印を背に押され、この牢獄へ閉ざされている。
「……彼女にはまだすべきことがある。お前に殺されてしまっては困る」
 ともすれば憐れむような、しかし冷淡な声音で青年は続ける。もう何度も繰り返したであろう、それは説得だった。
 彼は端的に片付ける。
「そもそも、世界の全てを監察する、それが『星』だ」
 微かな嗚咽が闇から漏れる。同じことを繰り返す男に、青年はあえて光を向けなかった。今や灯りは、彼の爪先しか照らしていない。
「……彼女がいなければ、全てが狂う」
 皆無に等しい視界の中で、彼はぽつりと呟いた。
「彼女だけではない。覚えているだろうか、お前が望んだ『実り』や『花』、『風』や『雨』、彼女達はどれひとつとして欠けてはならぬのだ、死神よ」
 それよりも以前、彼が何を望んだか。青年は最早覚えていなかった。彼を以ってしても記憶できぬほど、死神は常に誰かを欲している。
「そうしてお前は此度、『星』を望んだ」
 彼女を思い出したのか、闇の輪郭が小さく蠢く。ころころとよく笑う、穢れ無き少女。誰よりも青年に忠実だった彼女を手にしたときの恍惚感でも思い出したのだろうか。だがもう二度と、彼女は死神に降らない。星は再び、青年の下へ跪いたのだから。それを苦く回想して、彼は呟く。
「全ては、定められた時を過ごしてから、お前に狩られねばならないのだ。ひとつが狂えば連鎖が起こる。下手をすれば、お前を残して全てが消えかねない。それこそお前が真に恐れるところだろうに」
 闇から声は返らない。爪先は、自身の一部でありながら、ぴくりともしなかった。角灯すら揺れ動かない精密さに、今更驚きもしない。
 やはり同じ間隔で、彼は瞬いている。そう、彼は自覚している。
「――死にたければ殺してやるぞ、死神よ」
 静かな声を放ると、僅かな衣擦れの音がした。濡れた瞳の向こう側で、男は何を思うだろう。
「だが、首はすぐに戻される。次はその囚人服ではなく、あの黒衣の上に」
 甲高い金属音が、微かに嘆く。牢の楔で爪でも研いだか。青年は僅かに灯りを掲げた。それでもまだ、囚人を捉えるには遠い。
「お前は孤独だ、死神よ。お前だけが最後に全てを飲み込むが故に」
 だが男からは、照らされた顔が見えただろう。
「その時こそ、好きなだけ私をなぶるが良い」
 何を吐こうと、微動だにせぬその顔が。
 闇の向こうで死神は手を伸ばし、憎しみと共に絶叫する。
「――っ、『摂理』ィイ!」
 呪詛の声が牢獄中に轟く。荘厳な鐘にも似た響きは何度も青年の頭蓋を揺らし、やがて霧散した。その頃とうに、彼は踵を返している。静寂がそろそろと身を寄せて、牢獄にはやはり死神だけが残された。
 明日の未明、彼は何度も繰り返されたように斬首され、首は青年へと献上される。それにそっと口付けるだけで、死神は彼の配下へ還るだろう。長躯に美しき黒衣を纏い、影だけで誰もが慄く、残酷で甘美な死の神へと。
 青年は小さく息を吐いた。
 螺旋階段はもう終わる。足を掛けるその折は、あと何度繰り返されるかと憂慮する死神の愚行にも似ており、しかしその石段は、もう残り数歩で――。
「……早く私を殺してくれ、死神」
 最後の段を上りきり、彼はそっと弱い光を吹き消した。