COCOROKARA(投稿者G氏)



 深い森の中に、一台のバスが停まっている。塗装はすっかり禿げて錆び付き、タイヤはもう随分昔にパンクしたままだ。しかしバス自身にも、その運転手にも、もうそこから移動しようという気は一切無いようで、私が見つけた時にはもう、その状態のまま何年も放置されていたようだった。
 それでも私が毎日のようにそのバスへと通うのには、理由がある。

 こんこん、と、薄汚れた扉を叩く。
「運転手さん、乗ります。乗りまあす」
 私が声をかけると、今にも崩れそうな音を立ててバスの扉がゆっくり開いた。その向こうには、いつものように着流し姿で帽子を被り、運転席で義務のように本のページをめくる男が座っている。
「ウンテンさん、おはよう! なあ、作業は順調? また減った?」
「ぼちぼちね」
 男の視線は綴られた文字の羅列に吸い付いて、私の方を向くことはない。それでも私は、いつものように男の隣に積み重なった見知らぬ本の山を見ると、満足してバスの客席に乗り込んだ。
 つん、とした黴の臭い。バスの客席は随分昔に改造され、木造の本棚と、そこに詰まった大量の本とで埋め尽くされていた。その隙間に覗いた窓から、うっすらとはいる明かりが、いかにもその場を神秘のものとして仕立てあげている。
 私はその中の一冊を手に取ると、辛うじて残されたいくらかの客席へ腰を下ろした。
 本を開く。埃っぽく、やはり黴くさい。私がもう何日か前から、ここへ通っては読んでいる本だ。もう随分読み進めたから、今日こそは読み終わるだろう。……いや、読み終えざるを得ないだろう。
 私はこっそりと運転席の方へ視線をやって、男の様子を窺った。バックミラー越しに見える男の視線は相変わらず本へ向いていて、私に気を配っている様子はない。私はごくりと唾を飲むと、自分のポケットへそっと手を伸ばした。今日こそ、その時かも知れない。
 私の指先が、ポケットに入れられた鉛筆の先に触れた瞬間だった。
「いけないよ」
 たった今まで紙面をなぞっていた男の声が、言った。私は思わず鉛筆を取り落とし、隠すようにそれを足で踏みつける。使い始めたばかりの鉛筆はまだ長く、足の端からかなりはみ出してしまった。私は取り繕おうと口を開きかけたが、男は気にする様子もなく、「始めに言っただろう」と呟いた。
「ここの本は皆、どれも完結しないまま終わったものばかりだ。作者が途中で死んだり、書くことを諦めてしまったり……。けれど強い思いで紡がれた文字には力が残る。物書きという生き物は、それが一瞬のことであるにしろ、強い衝動を持って文を書き始めるものだからね」
 男がそこまで言って、一度言葉を切った。私が恐る恐る視線を上げると、運転席に座った男はうっすら微笑んで私を振り返っている。
「だから、無闇に扱っちゃいけない。続きを書こうとするのは、何より一番危険なことだ。下手をすると、その物語に飲まれてしまいかねないよ」
「けど」
 私は思わず、口を尖らせた。この人はいつもずるい。こうやって何でもわかったような顔をして、私の言葉を奪ってしまう。けれど今日こそは負けられなかった。昨日家に帰って、お風呂にはいる時も、夕飯を食べる時も、宿題をする間も、ずっと、この男に対抗するための言葉を考えていたのだ。
「ウンテンさんはいつも、物語の続きを書くじゃろ? そうやって、途中になった物語のムネンを晴らす、ゆうとった。じゃけど、こうして元気にしておるでしょ? 私だってウンテンさんのお仕事、手伝ってみたい」
 男は微笑んでいた。しかし私の言葉には返事をせずに、またすぐ読んでいた本の方へと視線を移してしまう。
「ウンテンさん!」
 紙のめくれる音がする。私は踏みつけたままの鉛筆を拾い上げ、ポケットへしまうと、読みかけの本を棚へと返した。
「ウンテンさん、手伝ってみたいよ。危険なら、危険じゃなくなる方法教えて。私、きっとやってみせるから」
「君には早いよ」
「早ない! 私、もうすぐ弟ができるん。お姉さんになるの。年は離れてるけど、大事にする。良いお姉さんになる。そしたら、もう大人じゃろ? な?」
 男はしばらく黙っていたが、ふと、視線を上げるとうっすら微笑んだ。
 初めて真っ正面から目にする、男の瞳。それは深い、深い、漆塗りのような黒色だ。
 私はなにか眩しさを感じて目を細めたが、すぐに、その目をまっすぐ見つめかえした。ここで負けてはいけない。そう思うのと同時に、何か得体の知れない力が、私の中に湧き上がっていたのだ。
 そうしてそのまま踏ん張って、私は次に耳へ入ってきた言葉に驚いた。思わず、目を瞬かせてしまう。
「それじゃ、一度だけだよ」
 頬が紅潮して、胸が弾む。私は元気いっぱいに、その言葉に頷いた。終わりを知らない物語が、私の導きを待っている。そう思うと、どうにも心が躍るのだ。
「この本で試してご覧。だけど君の期待するような体験は、きっと出来ないと思うよ――」
 男がそう言って、くすりと笑った、ような気がした。
 実は私には、その時はっきりと男を見ることが出来ていなかったのだ。本を手に取り、私の鉛筆がそれに触れた瞬間から、私の意識はどこか遠くへ飛んでしまっていたものだから。
 
 白く大きな建物の一角で、誰かが高い声で泣いている。赤ん坊の声だ。窓を覗くと、薄い桃色の産着を着た子供が、母親に優しくあやされている。その隣には父親が佇んでいて、幸せそうにその光景を見守っていた。
 ここが手渡された本の中の世界なのだと、私にはすぐにわかった。本を読んでいる時というのはまるで夢の中かのようで、私は雲のように定まらないどこかから、あるいは登場人物の目の高さから、その物語に参加するのだ。
 これも、同じ。
 だから私は、ページをめくるのと同じ気分で、その物語を読み進めることにする。
 この本はどうやら、あの赤ん坊の物語であるようだった。両親や周りの人々に愛情を注がれ、時に笑って、時に泣き、叱られ、褒められ、小さな女の子が少しずつ成長していく物語。
 少女はある日、風邪をこじらせ、寝込んでしまう。母親がその時に剥いてくれたリンゴが、どれだけ瑞々しく少女の喉を通っていったか、私は知っていた。
 少女はある日、公園へ出かけた。長い手足でひょいひょいとジャングルジムを登っていく父親を見て、少女は頬を膨らませた。いつか必ず、もっと高いところへまで登れるようになってやろうと思う少女の気持ちが、手に取るようだった。
 初めて逆上がりが出来て、嬉しかったこと。
 友達と喧嘩をして、悲しかったこと。
 庭で拾った、綺麗な石を宝物にしたこと。
 池で遊んで、びしょびしょになって叱られたこと。
 押し入れに秘密基地を作ったこと。
 友達の家のハムスターに、餌をやったこと。
 お誕生日ケーキが美味しかったこと。
 ごめんなさい、がなかなか言えなかったこと。
 ページをめくっていくうちに、段々と私もわかってきていた。
 ウンテンさんが私に、一体何というタイトルの本を手渡したのか。
 ――少女は段々と成長していった。そうしてやがて、ある場所へと通いだすのだ。深い森の中に、ひっそりと眠ったバスのもとへ。塗装は禿げて錆び付き、タイヤすらパンクしてしまったバス。けれどその中には、たくさんの物語が、終わりを知らないまま眠っている。
 私は少女を追って、窓からそのバスの中を覗いてみた。
 一人の少女が懸命に本を読みふけって、時たま、誰かに話しかけている。けれど、それに対する返答はいつもない。
 少女が帰るのを見送って、私はバスへと乗り込んだ。運転席に向かって笑いかけると、そこにはいつもと同じように、着流し姿で帽子を被り、義務のように本のページをめくる男が座っている。私は少しはにかんで、もじもじとしながら、言った。
「ただいま、ウンテンさん」
「おかえり。どうだい、よくわかっただろう?」
 私は頷いて、それからそっと、胸にぎゅっと抱えていた本を手渡した。運転席に座った男はパラパラとその本のページをめくり、最後にしたためられた文を見て、くすりと笑う。私はそれが照れくさくて、すぐにバスの階段を下りていった。ぺたぺたと、サンダルの音が私の足についてくる。
「いつかまた、ここへおいで」
 初めて聞く、男の明るい声だった。私は「うん」とだけ返事をして、振り返らずに帰路へつく。わかっていたからだ。あのバスは、ついに重たい腰を上げて、走り去ってしまったのだと。
 
 何年か経った、ある日のことだ。私は小さな手を握り、あの森の中を歩いていた。
「ここに、姉ちゃんがゆうてた不思議なバス、あったん? でも、たくさんサビついとったんじゃろ? どうやて走ったんかな。不思議じゃなあ」
「うん、不思議じゃろ? でもな、ホントにここに、あったんよ」
「あ。もしかしてそれ、姉ちゃんの書いとる新しい小説の中の事なん? そうじゃろ」
 私の小さな弟は、そう勝手に結論を出して駆けだした。私は「違うわ」と答えながら、思わず苦笑する。
 あれから何度もここへ来てはみたけれど、遂に私は、ウンテンさんと再会することが出来なかった。ウンテンさんの言った、「いつかまた」とは一体いつのことなのだろう。気まぐれなあの人のことだ。もしかすると私のことなど忘れて、もう二度と会いに来てはくれないのかもしれない。
 寂しいな、と私は思う。けれどその一方で、それでも良いのかな、と内心思っている自分がいる。
 ――少女にはとても元気な弟が生まれて、とても仲良く暮らしました。
 あの時したためた、たった一文。
 私は今でも、あの時ウンテンさんから渡された物語の続きを書いている。けれどそれをあの男に見られるのは、なんだか照れくさい思いがするのだ。
 あの物語は、私自身。彼はきっと今の私を見たら、以前と同じようにくすりと笑うのだろうから。