名しか知らぬ貴方は・・・(投稿者B氏)



「また来るよ、アニス」
 耳元で囁かれる甘い声。それに続く優しい口付けに、私は夢見心地だった。
 そっと目を開けると穏やかな瞳に出会う。
 笑顔を向けると彼はは微笑を返し、それから窓枠に手をかけてその身を乗り出した。
「会いたくなったら、手紙を書くんだよ。すぐに来る。まあ、その前にきっと俺の方から会いに来ると思うが」
「うん。待ってる」
 私の返事に彼は再び微笑むと、窓枠を蹴って宙に舞い、静かに芝生の上に降り立つ。
 そして、傍の木に繋いであった白馬に跨りもう一度私に微笑むと、近くの森の中へ姿を消していった。
「カイ・・・」
 部屋に残った彼の香りに包まれながら、私は胸元を飾る首飾りをそっと握り締めた。

 数ヶ月前に出会った、名前しか知らない愛しい人。
 近くの森で怪我をしていた彼に出会ってから、私は幸せだった。
 手当てのお礼に訪れた彼は、それから度々会いに来てくれた。
 会う度に彼の事が好きになり、彼の事をもっと知りたいと思いながらも、知るのが怖かった。
 優雅な身のこなし、気品のある風貌、高価そうな衣服に華やぐ香り。
 そして、彼が私にくれた首飾りに飾られた高貴な人だけが許される紋章・・・。
 それらが、村娘の私とは釣り合わない人だと語っていた。

 手紙を書き、笛で彼の飼う鳥を呼び私の気持ちを届けてもらう。
 そうすると、やってきてくれる彼。
 一緒に過ごす、夢のような時間。

 それだけで、私は幸せだった。


 それなのに・・・。


「さっさと書け、娘」
「・・・・・・・・・」
 首元に突きつけられた鈍く光る刃。
 私はペンを握り締めながら、唇を噛んだ。手が震えている。
「書かぬなら、家族がどうなっても知らんぞ?」
 顔全体を覆う黒い兜をつけた男は、脅すような低い声で囁いた。
 
 数刻前、小さな我が家に突然訪れた黒衣の男達。
 腰には剣を携え、全員が兜と鎧を身に纏い、黒いマントで身を覆っていた。
 そして、私の家族に刃を向けたのである。

「どうして・・・」
「お前は知らなくてよい。どうせ、あの男が何者なのか知らないのだろう?」
「それは・・・」
「お前が手紙を書けば奴はやってくるのだろう。それだけで家族の身の安全は保障される」
「・・・・・・・・・」
 首謀者と思われる男の言葉に、私は黙る事しか出来なかった。
 大切な人達を天秤にかけられるはずもない。
 ペンを握ったまま動かない私を見て、黒衣の騎士は嘆息し右手を上げる。
 すると、背後でガチャリと鎧の動く音。
「お姉ちゃぁん!」
 恐怖で泣き叫ぶ幼い弟の声。
 振り向けば、弟を抱きしめた母の喉元に触れるだけで斬れそうな剣が突きつけられている。
「何も知らない男のために、家族を見捨てるのか、娘?」
 恐ろしさに震えながら、すがる様な瞳で私を見つめる母と弟。
 大切な家族を見殺しになど出来ない。
 私は前に向き直ると、ペンにインクをつけた。
「そうだ、それでいい」
 満足そうな黒衣の男。
 私は悔しくて、気がつけば頬を涙が伝っていた。
「言っておくが、手紙に余計なことは書くなよ。危険を知らせるような事を書けば・・・どうなるかわかるな?」
「・・・はい」
 愛の言葉を綴りながら、涙が止め処なく流れ落ちる。
 混乱した頭では、この男にわからないようにメッセージを伝える文章などかけなかった。
 ただ、カイが来ないように願いを込めるだけ。
 手紙を書いても来なければ、彼らは諦めるかもしれない。
 そう祈るしかなかった。
 
 しばらくして、音のない笛で彼の鳥を呼び、その足に手紙を巻きつけた。
 カイに嘘をついている心苦しさが込み上げる。
 私が手を離したのを確認すると、鳥は外に向き直る。
 そして、羽を広げた。
「っ・・・やっぱりダメェェ!!」
 飛び立とうとした彼の鳥にそう叫んで手を伸ばす。
 が、黒衣の男に腕をつかまれ動きを止められた間に大きな翼を羽ばたかせ、鳥は夕暮れに染まる空に消えていった。
 彼の身を危険にさらす手紙が空の向こうに消え、腕を放された私はがっくりと膝を床についた。
 絶望が体中を駆け巡る。
「よくやった。お前の家族の安全は保障しよう」
 涙を流す私に、事務的な黒衣の男の声。
 すると、鎧が動く音と共に、ほっと息をついた母の声が聞こえた。
 背後を確認すれば、剣を収めた男達が、母達を気遣うように手をとりながら立ち上がらせている。
「彼女達には、全てが終わるまで下の部屋で待っていただく」
 彼の言葉が合図かのように、母達を促して私の部屋を去っていく黒衣の男達。
 首謀者と思われる男だけが、私の部屋に残る。
「奴は、直接この部屋に来るのだったな」
「・・・はい」
「それまで、待たせてもらおう」
 男はそう言うと、腕を組んで椅子に腰を下ろした。
 私を捕らえておく気はないらしい。
 私はベッドの上に腰掛けると、カイがここに来ないようにひたすら祈り続けた。 
 


 夜の帳がおり、空が月もない闇に染まった頃、馬の足音がこの家に近づいてきた。
 びくっと肩を震わす私の横で、黒衣の男がゆっくりと立ち上がる。
 そして、彼がいつも現れる窓の脇に身を潜め、腰の剣を抜いた。
 私は思わず窓に駆け寄って危険を知らせようとしたが、射抜くような冷たい視線に足が止まる。
「余計なことをするなよ、娘。家族が大切だろう」
「っ・・・」
 脅迫の言葉に迷いが生じた。
 そして、カイが木をつたい私の部屋に来るには、それだけの時間で十分だった。
 窓の外に影が映り、部屋の中でゆれるロウソクの光がカイの微笑を窓越しに映し出した。
 カイはいつものように、ゆっくりとその窓を開けるだろう。
 そして部屋に降り立った時・・・黒衣の男が・・・。

「カ・・・」

 堪えきれずに危険を知らせようとした私は、名を呼びかけて息を飲んだ。
 微笑みながらカイが手にしているのは、鞘から抜いた剣。
 そしてその直後、派手な音と共に窓ガラスが割れ、身を潜めていた黒衣の男の喉下に剣が突きつけられていた。
「なっ!?」
「ずいぶんと、無粋な事をする」
 息を飲んだ黒衣の男に、穏やかな口調で言葉を投げかけるカイ。
 剣を突きつけたままガラスのなくなった窓枠をくぐると、部屋に降り立った。
「人の恋路を邪魔するものじゃないよ」
「貴様っ、何故!?」
 余裕の笑みを向けられた黒衣の男は、驚きの声をあげた。
「手紙には何も書かれていなかったはずだ!それなのにどうして!?」
「そう、アニスの手紙はいつも通りの愛の言葉しか綴られてなかった」
 そう言って、カイは呆然と佇む私を見つめ優しく微笑んだ。
「だがね、幸せに満ちたはずの言葉が綴られた文字は、涙で滲んでいたんだよ。何かがあったと思うのは当然だろう?」
「カイ・・・」
「おいで、アニス」
 剣を突きつけたまま、私に微笑を向けるカイ。
 私が駆け寄ると、剣を持たぬ方の手でそっと引き寄せてくれた。
 そして、私の髪に優しく口付けをする。
「すまない、アニス。怖い思いをさせてしまったな」
「ううん、カイは悪くない。私の方こそごめんなさい。危ない目に合わせるのをわかってたのに手紙を書いて・・・」
「いいんだよ。アニス。家族を質にとられてはしかたがないさ」
 カイは微笑みながら、流れ落ちる私の涙を唇で拭ってくれる。
「それに、俺を想うアニスの涙が、ちゃんと危険を知らせてくれた」
「カイ・・・」
 カイの優しい言葉が嬉しくて、そっとその胸に顔を埋めた時だった。
「ちょっと待てーー!!」
 溜まりかねた様に、黒衣の男が大声をあげる。
「悪くない奴が狙われる訳がないだろう!」
「え?」
 驚いて顔を上げる私に、動じた風もなく彼に視線を向けるカイ。
「俺は悪人のつもりはないがね、王宮騎士団長?」
 黒衣の男に向けたカイの言葉に、私は思わず固まった。

 王宮騎士団

 田舎の娘でも知っている、この王国最強と謳われるの由緒ある騎士団である。
「王家の秘宝を盗んでおいて、よくもぬけぬけと!この盗賊めが!!」
「えぇぇぇ!?」
 驚きの声をあげる私の横で、カイはクスッと楽しげに笑った。
「王家の秘宝・・・。これの事だったかな?」
 そう言うと、服で隠れていた私の首飾りを彼に見せるように服の上に出した。
「んな!?そんな場所に!!?」
「えぇ!?盗品!!??」
 重なる驚愕の声にも動じず、優雅な笑みを湛えているカイ。
「俺を待っている間に回収できたのに、残念だったね」
「こんな高価なもの、ただの村娘にやるとは誰も思わんだろう!」
「ただのじゃない。俺の愛する人だ」
「いけしゃあしゃあとっ!」
 そう叫ぶと、騎士はスッと身を引いたかと思うと一瞬にして剣を抜いた。
 そして、カイと剣をあわせる。
 私は余裕の表情のカイと怒りのオーラを放つ騎士を、呆然と見つめていた。

 悪人だと思っていた黒衣の男が正義の使者。
 そして、高貴な血筋だと思っていたカイが盗賊。

「娘!その首飾りを返せ。それが何か知った今、返さぬのならお前も罪人だぞ」
「気にするな、アニス。王家の無駄な贅沢を認める事はないよ」
「よく考えろ、娘。こいつが逃げ切れると思うのか?」
「え・・・と・・・」

 愛を取るか、正義を取るか、混乱気味の私に突然迫られる究極の選択。

 私は迷い、そして・・・・・・。




「やはり、王妃の胸元に似合うね。その首飾りは」
「そう・・・かな」
 照れたように笑んだ私の胸元に、それはあった。
 隣には、優雅に微笑むカイの姿。
 そして、私達がいるのは王城の一室だった。

 あの出来事から一年。
 盗賊だったはずのカイは、この国の王となっていた。

「物を盗むのも簡単だったが、王政を乗っ取るのも容易かったな」
「えーっと・・・そう思ってるのはカイだけだと思うけど?」
「アニスの愛があったからかな」
 私の言葉を気にもせず、微笑みながら口づけするカイ。

 あの後・・・カイも家族も守ろうと騎士の頭を花瓶で殴りつけた私が見たものは、家の外に待っていた数千人のカイの部下。
 王国随一の騎士団を破った彼らは、その後、貧しい民を顧みなかった王国をも滅ぼしたのだ。
 
 盗賊の仲間になる事すら覚悟した私の未来は、王妃。
 
「人生って・・・不思議ね」
 
 しみじみと呟いた私に、カイは優雅に微笑んだのだった。