王子と鏡(投稿者W氏)



 フィレンツェ製の洒落た長椅子に腰掛けて、王子様は正面の壁をじっと見据えていました。壁には先刻購入したばかりの姿鏡が掛かっています。鏡は全身がすっぽり入る大きなもので、鏡面を囲む丈夫そうな白木の枠は見慣れぬ幾何学模様が刻まれていました。オリエントから買い入れた品だと、鏡を売りに来た商人は話していました。
 つい先月、十五歳になったばかりの王子様には、この鏡の何もかもがこの上なく素晴らしい芸術に思えてなりませんでした。
 まず、白木の枠。この辺りの森は気の滅入る暗い色の木ばかりだから、明るさが何とも言えません。
 それから鏡面。城にある鏡はどれもこれも古くさい年代物で、みんな少し曇っています。何十年とかけて積もった汚れは毎朝女たちが必死に磨いたところで落ちはしない代物で、王子様はいつも自分の姿が陰るのが気に入りませんでした。ところが、この鏡はどうでしょう。染み一つ無い滑らかな鏡面はこれまで見たどの鏡よりもくっきりと自分を映してくれるのです。十五歳の若々しさを何にも邪魔させずに見せてくれる。王子様は自分がまるで絶世の美男子になったような気がして、有頂天でした。
 ああ、なんて素敵な買い物をしたんだろう。母様は商人のニヤニヤ笑いが嫌らしいと仰っていたけれど、あれはきっと誤解だ。南の地方はどこも景色が美しく、食べ物も豊富な幸せな土地だって言うじゃないか。あの商人はそんな土地で育ったからいつも笑顔が絶えなくて、仕舞いには顔の造形まで笑顔になってしまったんだよ。彼には気むずかしい顔なんて出来やしないんだ。だって幸せなんだもの。そして、この鏡はそんな男が運んできた物だ。遙か東の異教の地より、宝船で地中海を越えて、幌馬車で七つの山を越えてこの寂しい土地へやって来たんだ。この広い世界で、たった一人の私の元へ。どんな奇跡だろうか。神様は私に幸福を届けてくだすった。今晩はいつもよりうんとたくさんのお祈りを捧げなくちゃ。
 鏡が勉強部屋の扉の横に掛かってからというもの、王子様は嬉しくて嬉しくて、幾度も隣の寝室へ行ってみたり、本棚に収まっていた聖書をきちんと授業前に机まで運んでみたりと、鏡の前をむやみに行ったり来たり。ついにはお気に入りの長椅子を持ってきて、鏡の正面に陣取ったまま今に至ります。王子様はもうすっかり鏡に魅了されてしまって、ずっとそこから動きたくないくらいでした。
 しかし、間もなく神学の教師がやって来て、あの起伏のない声でラテン語を読み上げる退屈な授業が始まってしまいます。渋々席を立ちながら、王子様は零しました。
「あーあ、つまらないなぁ」
王子様は若者特有の繊細な価値観でもって、平坦な日常を馬鹿にしていました。こんな刺激のない日々はもううんざりです。ちょうど窓の外では、傾いた日を背負い、村人たちが賑やかなお囃子を鳴らし始めていました。ほんの少しでいい、街へ出て秋の祭りに参加したい。ぼんやり喧噪に思いを馳せているうちに時間はどんどん流れていってしまいます。ああ、どうしよう。また退屈がやって来ます。どうにかして、この繰り返しの日々から脱出できないでしょうか。
「つまらないなぁ」
諦めと共にもう一度呟いた時でした。それまで完璧に左右対象な姿で映っていた鏡の中の王子様が、にやりと笑ったのです。
 驚いて一歩前に出ると鏡像もやはり同じ調子で足を踏み出しましたけれど、顔にあるのは唇の端を少し持ち上げて作った薄い笑顔。呆然とするうちに”彼”はいよいよ王子様から独立し、鏡の中でもう一歩前に進んで、ゆっくりと口を開きました。
「代わって差し上げましょうか?」
更に驚いたことに、鏡像は声まで王子様と全く同じものを持っていました。
「な、なんだ、お前は」
鏡の外の王子様が乾いた声で問いかけます。鏡の中の”王子様”は事も無げに返しました。
「何を仰いますか。ご覧になればお分かりでしょう、私はあなたですよ。……分かりづらいようでしたら、”鏡の精”と言い換えても差し支えはありませんがね」
「魔性の物か」
「残念なことに、世の中には、悪しき意味を込めて我々をそのように呼ぶ方もいらっしゃるようです。ですが、まず初めに一つだけ弁明させて下さい。本当のところ、我々は極めて正しい存在なのです。永い年月を経て古き道具に宿った善良なる魂なのです。なにせ我々は、人の望みを叶えるために存在しているのですから!」
鏡像は真っ直ぐ王子様を見つめていました。まるでご馳走を目の前にした幼子のような瞳の輝き。疑いようもなく歓喜を溢れさせた表情。目も口も眉も、全てが自らを善意の使者だと訴えています。
「ああ、王子よ。私はただあなたの望みを叶えて差し上げたいのです。我々にとって、人の願いを叶えることほど嬉しいことはありません。さあ、私に何なりとお申し付けください」
「叶えると言ってもな。鏡の中にいるお前に何が出来る」
「おや、さては大変な誤解をしていらっしゃる。契約さえしてくだされば、私は貴方とそっくり同じこの姿でここから出ることが可能なのですよ」
 同じ姿でだって?
 その言葉を聞いて、王子様がかねてから抱いていた願望がすぐ目の前に迫ってきました。同じ姿の人間がいれば、自分と入れ替わってくれる者がいれば、すぐにでもこの城から忍び出て祭りを見に行けるではありませんか。
 王子様は夢中になって叫んびました。
「一体どうすれば良いのだ。すぐにでも契約しよう!」
鏡の中の青い目が歓喜を宿してきらきら輝きます。
「そのお言葉だけで!」
鏡は、待ちわびていたとばかりにすぐさま王子様の方へ腕を伸ばしてきました。するとどうでしょう。鏡の表面にぶつかるかと思えた腕は、まるで水中から抜け出すかのようにするりと鏡面を超えてこちらの世界へ現れたではありませんか。
 言葉を失う王子様をよそに、鏡像はすいすい両腕を出し、右足を出し、顔を出し、体を出し、最後に残っていた左足も慎重に鏡の中から引き抜きました。それはちょうど、王子様が浴槽からあがるときに左足を最後にして、もったいぶって湯浴みを終えるのと同じ仕草でした。
「お初目お目にかかります、殿下。どうぞよろしく」
鏡像だったものは、やはり王子様とまったく同様の声で、慇懃無礼な挨拶をしてみせました。王子様は「どうも」とだけ答えて、差し出された手を握り返します。鏡の中から出てきた彼の手は、背筋が凍りつくくらいに冷たいものでした。
 期待に満ちた顔でこちらを見る彼に、戸惑いながらも指令を下します。
「お前はこれから、私のふりをしてここにいておくれ。私は村の祭りを見物に行く」
「かしこまりました!」
彼は大きく部屋の空気を吸い込むと、口の端を歪めて胸を張り、窓の外を指さしました。
「ここは私の部屋だ。さっさと出て行け!」
容姿や声だけでなく、立ち振る舞いまで瓜二つ。これなら絶対にばれることはないでしょう。王子様はにんまりと笑って、大きな窓から庭へ飛び出しました。



 それは夢のような一時でした。人々の間を縫って出店を冷やかし、軽快な音楽に体を揺らし、農民の踊りを眺めます。鳴りやまぬお囃子も、闇夜に映える篝火も、みんな王子様が近づきたいと願ってきたものです。村の広場を二時間ばかりウロウロして祭りに酔いしれると、王子様は醒めやらぬ興奮を抱えたまま城へ戻りました。



 忍び足で庭を横切り、自室の窓をそっと叩きました。なかなか音が聞こえなかったようで、七度目に叩いた時にようやく自分と同じ姿の人間がガラスの向こうにやって来ました。
「帰ったぞ、開けてくれ!」
広場で貰ったリンゴを見せて満面の笑みでもう一度窓を叩きます。しかし、もう一人の王子様は願いに答えず、冷たい目で一瞥をくれると踵を返し廊下へ去ってしまいました。しばらくして側近の兵を従え戻ってきた彼は、兵に窓の向こうの人物を示すと苛立った声で怒鳴りました。
「曲者だ! 私と同じ姿をしている……悪魔に違いない!」
たちまち王子様は捕らえられ、兵の手で体を庭土に押しつけられました。どれだけ自分が本物だと叫んでも、誰も耳を貸してくれません。室内で長椅子に座って、窓からこちらを見ているもう一人の言葉が絶対でした。
「殺せ。こうも似た輩では、いつ私を騙って謀略を巡らすか分からないからな」
その言葉を聞いて、王子様は何もかもを諦めました。鏡像はもはや完璧に自分になっているのです。自分が同じ顔の人間を見つけたら、きっと同じことを言うでしょう。相手の言葉などみんな無視して殺してしまうに違いありません。
「さあ、早く殺すのだ。二度とその気味の悪い姿を私に見せるな」
「かしこまりました」
王子様が幼い頃から傍仕えしている側近が、昔から変わらぬ従順さで偽物の命令を遂行します。
 目を閉じると、剣を抜く音が聞こえました。



 次の日の夜。神学の授業を控えた新しい王子様は、お気に入りの長椅子に座って鏡を眺めながら、前日から続いて開かれた祭のお囃子に聴き入っていました。程なくやって来る教師が展開するであろう退屈な授業を想像し、ぼんやりと零します。
「あーあ、つまらないなぁ」
これからずっと変わり映えのない毎日が続いていくのです。王子様は若者特有の繊細な価値観でもって、平坦な日常を侮蔑しました。どうにかして、この繰り返しの日々から脱出できないでしょうか。
「つまらないなぁ」
もう一度呟いた時でした。曇り無い鏡面に映った左右反対の自分が、にんまりと笑みを作ったのです。