春人(投稿者R氏)



春も近付く日の沈みかけた空に、濃い群青色が広がっていく。
家路を急いでいた梢は、自分の住む今時の洋風アパートの手前で呆然と足を止めた。
「誰・・・この人」
アパートの階段の下には多分同年齢であろう端正な顔立ちの青年が倒れていた。
ここを見ぬ振りして通り過ぎるか助けるか・・・、考える間も背後を風が横切っていった。


部屋に何かをぶつけるような硬質音が響く。
ゆっくり目蓋を持ち上げると、さっきとは打って変わって辺りは明るかった。
「いつの間に・・・」
頭を抱えてみても記憶は無い。
それよりもこの部屋が気になる。
すっきりと片付けられた部屋は、窓の外に見える夜空よりも眩しい。
「あ、起きてる」
その声とほとんど同時に、部屋の扉が開いて誰かが顔を覗かせた。
この人物、勿論見知ってなどいない。
「変な場所で倒れるのね」
「あ?」
梢が差し出したのは湯気の立ち昇る粥。
今までお腹が空いていたことを思い出して、ベッドに寝ていた彼は極度の空腹感を覚えた。
「ずっとお腹鳴ってたから、空腹なんでしょ?はい」
「人間・・・お前いい性格だな」
「え?」
「あー助かった!これで難無く北まで行けるか」
そう言って彼は粥を掻き込み始める。
梢はといえば、今の言葉の真意が分からない。
それにこの容姿もだ。
パステルブラウンの柔らかい髪に端整な顔立ちといい胸が高鳴ることこの上ないが、やはり訳が分からない。
「・・・あなた誰?どこの人?」
「俺か」
粥を口に運ぶ手を止め、彼はすんなりと言った。
「名はカイ、どこって言われてもな・・・人間で言う春の使者か」
梢の頬は最初にカイを見た時と同様またも引きつった。
やっぱり助けるんじゃなかった、と今更後悔する。
「なんだその反応、今までの極寒の中に春を届けに来たんだぜ?」
「冗談は止してよ」
「本当だ。特別に見せてやるよ」
そう言ってカイはすっと右手で空を切った。
それまで疑わしそうに視線を投げかけていた梢だったが、急に目の前に現れたものに驚く。
「花びら!?」
「ようやく笑ったな」
どこからともなく舞い踊る薄桃色の花びらが、梢の手のひらに触れては消えていく。
ひらひらひらひら・・・雰囲気までも暖かくなったような気がした。
思わず息を呑んだ。
カイはそんな梢を見て微笑んでいた。
「それ、内緒にしておけよ?粥の礼だからな」
呆ける梢を笑いながら、カイはがらと部屋の窓を開けた。
春に向かうこの頃だがまだ寒い。
暖かくしてあった部屋の中に空っ風が吹き抜けていく。
「え、ちょっと待って!ここ2階よ?」
「分かってる」
窓枠に片足をかけて今にも飛び降りようとするカイは、振り返った。
その笑みは、まるで春が訪れたみたいに。
「じゃあな、来年もお前に会いに来るとするか」
残された部屋、唖然とする梢はカイの消えていく姿を最後まで目で追った。
風に掻き消えたカイは、もう行ってしまったのだろう。
窓からひとひら、薄桃色の花びらが舞い込んだ。