白い花(投稿者L氏)



水汲みの帰りに、乾いた土に咲く一輪の花を見た。覇気と生命力を象徴するかのように力強く根を張った白い花。
乾ききった栄養のない土からこんなに白くて美しい花が咲くものなのか。
摘み取るのさえ躊躇わせるほど、その花は優美で神々しかった。


「そういえば、昨日まではこんな花を見なかったわ」
姉に白い花のことを話してから、私はふとそう呟いた。
水汲みに行くときにはいつも、先に往復した人たちのこぼす水の跡を道しるべにしている。
だから大抵は道に迷うことなんてなかったし、そもそも、このどこまでも続いている単調な地の微妙な違いも、私たちは本能的に把握していた。
故にあの花があそこに咲いているのは、単純に私が見逃してしまったくらいしか考えられないが、
「あるいは白い花が一夜のうちに茎を伸ばして葉を出し、そして花開いた」
まさか、と姉は呟いた。
姉のいる台所から立ち上る湯気に、鼻をくすぐるよい匂いが乗せられてくる。
「あんたはいつも夢見すぎ」
手際よく料理を盛りながら、彼女はいつものように夢のないことを言う。
「そもそもこんな、小さな集落と荒野しかないところに花が咲く訳ないじゃない」
「そんなことないわよ。私がちゃんとこの目で見たんですもの」
「じゃあ、きっと幻でも見たのでしょう」
「いいえ、あれはちゃんと『生きて』いたわ。花の輪郭とか、しっかりと伸びた茎とか、青々とした葉っぱとか。触って確かめたもの」
姉は皿を並べながら、平然と私の話を聞いている。まるで信じていないようだ。
「だったらどうして摘んでこなかったのよ。そんなに美しい花ならば」
あまりにさらりと言われて聞き流してしまいそうだったが、その質問には答えられなかった。
美しすぎて摘めなかった、と言えばきっと笑われるだろうから。
もったいない、押し花にすればきっと高値がついたでしょうにと、やはり信じていないような口ぶりで。
でも本当にそうなのだ。
あらゆる生命を寄せ集めたような、一輪の花からは到底出せないような生命力、厳かさ。
これを摘み取ったら幾つもの命をむしりとってしまうような気がして、触る時さえ手が震えるくらいだったのだ。
あの花が踏まれず摘まれずにあそこに咲いていたのは、きっと他の者も私のように圧倒させ、畏怖の念さえ感じるような計り知れないこの力にあったのだろう。
「もしかしたら、花の下に水源があるのかもしれないわ」
料理を盛りながら姉は言う。いよいよ私の腹の虫がわめき始めた。
「村の井戸が枯れちゃったし、今の水汲み場も結構危ないんでしょう? だったらあそこを掘り起こせば、なんとか集落を移さないで済むかもしれない」
村の井戸は、今まで人々が量を決めて使っていた。日照りは多くとも雨がまったく降らない場所ではなかったので生活水の確保にはさほど困らなかったのだが、一週間ほど前から急に井戸の水の量が減り始め、対におとといでそこを尽きてしまったのである。
たまたま、村にやってきた旅人が教えてくれたところから水源を掘り起こして難を逃れたものの、こちらも水の減りが異常に早かった。
以前にも生活水の確保を求めて集落を移動させたことがあったが、生傷だらけの足を引きずり、炎天下をただひたすら歩いては倒れ、蜃気楼の映し出す幻影に半分気が狂い掛けたのを覚えている。
他の人たちも皆同じ思いはしたくないらしく、故に皆水の使用は最小限に済ませていた。
それでもこの有様だ。
私は、仕事をするという姉に代わりに水源があるかを確認するよう命令され、渋々花のある場所へ行った。


日が沈みかけている。
夕焼けの投げかける紅い光に照らされて、燃えるように輝く花の姿はまた美しかった。
私は花を摘もうとしたが、震える指先が花弁に触れた途端、手を引っ込めてしまった。
やっぱりできない。
この花に罪なんてない。水源があったとしても、この花を枯らすわけにはいかないのだ。
水汲み場が枯れそうなら、原因を探せばいい。そうだ、きっと誰かが水を浪費しているのだ。見張って犯人を捕まえてしまえば――。
その時、私は自分の旋毛になにか冷たいものが落ちるのを感じた。
頭をそっと撫でると、てっぺんのあたりが湿っぽかった。
「水……?」
よく見ると、花びらにも水滴がついていた。
その時、見る見るうちに地面に影が伸びていった。
何が光をさえぎるのだろうと空を仰ぐと、そこにあったのは黒々とした雲だった。
その途端、雲は雨を降らし始めた。私はぬれる服を押さえ、村へ帰ろうと走り出した。
しかし数十歩と行かないうちに、雨がやんでいたことに気づく。
だが確かに雨音が聞こえる。何故だろう。
足を止めて見渡した私は、花を置いていった場所でふと目を止めた。
雨雲は確かにまだあった。それも、花の真上だけに、小さく。雨は花の上だけにしか降っていなかった。
「どういう事……?」
つぶやく私の目の前で、元々小さかった雨雲は更に小さく縮んでいき、ついには完全になくなってしまった。


「そりゃ、たまげた。そりゃ、間違いなくアナモスの花だな」
筋骨隆々とした体つきの集落の長は答えた。
「アナモスの花? 天使の羽と称される、架空の花のことですか?」
「ああ、そうとも。ただしあれは架空じゃねえ。それも天子の羽なんて嘘っぱちだ。信憑性がないから、勝手にそういう存在にされたのさ」
「信憑性がない、と言いますと?」
「あれは悪魔の花だ。たった一回だけその花を見た者によると、特定のものにしか見えないその花は、数日で湖を枯らすくらいの水で育つらしい。その花による干ばつの被害もあるそうだが、見えないもんだからそりゃ、気づかないわけだし、信じもしないんだな」
私の脳裏に、枯れた大地と水のない井戸の底がふっと浮かんだ。
「じゃあ、アナモスの花を生かしておけば……」
「そりゃ、間違いなく今ある水まで持っていかれちまうだろうよ」
あの雨雲が、全て持っていってしまう。井戸の水も、やせた大地のわずかな水分も。私たちの命の源も。
それでも私は信じたくなかった。
「ならどうして長は、その存在を信じるのですか。私は、私は、あの花に罪など感じません! 悪魔なら、どうしてあそこまで神々しく輝くのですか!」
「それは摘もうとするものの心を魅せるためだ。醜い雑草のようだと疎まれて除かれるし、また並の綺麗さでは摘まれちまう。あれは踏まれても平気だが、摘まれては生き延びられないとよく分かっているのさ」
長の言うことはあまりにも詳しすぎた。
信憑性がないことだと自分で言っておきながら、ここまで私に教えてくれるとは。
それを見透かしたかのように、長は軽く笑った。
「お察しのようだがな、花を見た奴って言うのは俺のことさ。あの花は摘まなきゃ滅びねえ。俺はそりゃ、摘んじまったがよ。お前さんの言った場所、俺も今朝通ったが何も見えなかった。お前さんにしか摘めねぇってことだ」
鍛えられた腕からは想像が付かない力加減で、長は私の頭をやさしく撫でた。
「お前さんは昔から心根の優しい女だからな。つらい気持ちは分かるが、集落丸ごとぶっ潰すのと、神の振りした悪魔を守るのでは、どっちが重要かお前さんなら分かるよな」


「あら、遅かったじゃない」
水汲みから帰ってきた私の鼻をくすぐるのは、いつもの姉の料理のにおい。
「ちょっと寄り道してきたの」
「へえ、あなたが寄り道だなんて珍しい。水瓶でも落としたのかしら? 言い訳は思いついたの?」
まさか、と私は笑って言った。
「それより姉さん、水汲み場の枯渇の危機、免れたって長から聞いた?」
水の入った瓶を床に置いて席に着き、私はそれとなく訊いた。
「ああ、聞いた聞いた。皆とっくに知っているわよ。これで集落移動はしないで済むのね」
心底安堵したような声を上げ、並べた皿に料理を盛り始めた彼女はふと手を止めた。
「あんた、それなあに。変な紙なんか持っちゃってさ」
「ああ、これ? 長と押し花を作っていたの」
「押し花?」
姉はそれを私から受け取ったが、呆れたようにすぐに返した。
「夢見がちとは思っていたけど、幻覚まで見るようになっていたなんて。それ、どう見ても中身がないじゃない。長も変なことに付き合ってくれるのね」
「中身なら入っているわよ」
私は紙をそっとポケットに入れた。
「白い花の押し花よ」