少年は天を仰ぐ(投稿者I氏)



「……担任の小林です。これから一年、楽しく勉強して行きましょうね。では早速、最初の出席を取りますよ。じゃあえっと……下の名前は、シュウ君と呼べばいいのかな、相場君……」
 しんと静まる教室では、先生の点呼の声だけが響いている。
 欠伸を噛み殺しながら頬杖をついていると、
「なあなあ、アイツ」
「えっ」
 突然、後ろの席から背中を突つかれた。
 中学まで一緒だった幼なじみの友達、宣之だ。同じ苗字の縁で仲良くなって、もう八年くらいになる。
 彼が窓際の列に視線を送っているのを、僕も同じように追い駆けた。その先には、前髪が長くて少し小柄の男子がいる。当然、今日初めて見る顔だ。
「あれ、ヤバイらしいぜ」
「ヤバイ?」
「関わったら痛い目に遭うらしいヨ」
 そう、こっそり耳打ちしてくる。
 何の前触れも無い話に、戸惑った。返事に困っていると、宣之は即座に続ける。
「アイツとオナチューらしい奴らが言ってた。さっきの式の時」
「へえ、何って?」
「ウン……ちょっとオカルトっぽいんだけどサ」

 宣之が言うには、こうだ。
 以前そいつと同じクラスになったある子が、そいつと知り合った直後に不自然な大怪我を負って、何故かそいつもまた、同じ日に同じような怪我をしていた、という。
 そして、似たような事が何回も起こって、その学校では専らの噂になっていたんだそうだ。
 あの男子が呪いをかけているんだ――と。

「え〜? 何だそれ。有り得ないって」
「でも関わらないに越した事は無いだろ。それになんか、アブない雰囲気だしサ」
 言われてもう一度そっちに目だけ向けると、そいつは視線どころか顔ごと教卓に背いてじっと窓から外を眺めていた。確かに、ちょっと変わり者っぽくは見えるけど、あくまでそれだけだ。
 こいつがヤバイ……ね。どうにも信じ難い話だ。
 でも一応、友達の忠告の手前、その場では黙って頷いた。
「一応覚えておくよ……」
「こら、清水。お喋り禁止!」
 唐突に、担任の声が飛んで来て、僕達は揃ってビクっとなった。
「あ、はいっ」
「ハ……ハイッ」
 僕と宣之の返事が、見事に被った。
 瞬間、教室に微かな笑いが生まれて、僕らは一緒になってニヤリとした。



 新しい環境にも大分慣れてきた、ある日。学校からの帰り道の事だった。
 一面芝生の堤防の坂にひとりで立って、陽の沈みかける空に向かって、大きく手を広げている少年を見掛けた。
 何だあれ、何やってんだろ、と目を細める。すると、長い前髪が靡くのが見えた。間違い無く、この前宣之が言っていた『あいつ』だった。
 うわ、まずいかも……
 どきっとしながらも、この一見異様な姿に、僕は何故か強く惹かれるものを感じた。
 目を奪われる、というのはこういう事なのか。こいつから顔を逸らす事が出来なかった。
 ふっと視線が合う。無意識のうちに歩み寄りながら、僕は彼に呼び掛けていた。
「お前、安永だったな」
「うん。えっと、確か、前の方の清水君」
 眉毛一つぴくりともせず、彼はあっさりと答えた。奴の声をちゃんと聞いたのは初めてだった。まだ声変わりもしていないような、あどけない声だ。
「……ああ、これ? これはボクの日課」
 こちらから尋ねる間もなく、安永は続けた。
「何時もこうやって、空にありがとうって言ってるの」
「ハァ」
「それでね、ボクは毎日、空から活力をもらってるんだ」
 何だろう……妙な気分だ。
 こいつ、変な事言ってるな、と思うより先に、知らず知らずのうちにふぅんと大きく首を縦に振っていた。
 気のせいか、僕はこの男――安永と、ずっと前から知り合いだったような錯覚にとらわれていた。



 安永が夕暮れの河原で腕を広げている、そんな光景も徐々に見慣れてきた、ある土曜の夕方。
 この日は朝から激しい土砂降りだった。
 家から塾に向かう途中の、三叉路の交差点を渡ろうとした時。
 不意に自転車のタイヤが滑ってしまった。
「うわ、やべっ……!」
 派手にすっ転んで、思い切り右膝を地面にぶつける。
 あまりの激痛に、自分でも驚くほどの悲鳴をあげてしまった。
「いっ、てぇっ!」
 まさか、骨をやっちゃったんじゃ……咄嗟に嫌な予感が頭をよぎる。
 このまま塾に行くのは無理だな。それに、まだ家に戻った方が近い。迷わず引き返した。
 母ちゃんは少しパニックになりながらも、すぐに車で病院に連れて行ってくれた。
 幸い骨折には至らなかったものの、右足は打撲、手にもあちこちにすり傷が出来てしまった。

 ところが、これだけじゃなかった……
 僕は、信じられないものを目の当たりにする。
 病院から家に戻る時、川を渡り切ったところで、偶然、見てしまったんだ。
 あいつが、僕と同じように右足を怪我しているのを――
 車の窓越しで、雨も降り続けていたし、ちらっと見えただけだから、はっきりそうだったとは言い切れないけど……
 橋の上で、傘もささず立ち尽くしている、右だけに松葉杖をついた、安永の包帯姿。
 恐らく、あいつに違いない。何故か、そう思わずにいられなかった。
 決して、宣之が言っていたあの話を頭から信じてた訳ではなかったのに。



 次の月曜日。安永は学校に現れなかった。
 人づてに聞いた話では、激しく体調を崩しているという。
 無論、『あの』噂も囁かれ始めていた。気が付けば、当事者の居ない所で雪だるまのようにどんどん膨れ上がっていて、放課後になる頃には、僕ではどうしようも出来ない状態になっていた。
 会う人会う人、開口一番「呪われちゃったね」だの「何か恨まれる事、した?」だの……
 帰り道まで、冗談じゃないよ。ウンザリしながらも、言いようのない不安に、まるで突き動かされるように、僕は自然とあいつの居る河原を目指して歩いていた。

「安永……」
 目を疑った。芝生をベッドに寝そべっていた彼は、松葉杖をつくどころか、右足にぐるぐる巻かれていた筈の包帯でさえ取っていたのだから。
「お前、怪我してたんじゃないのか!」
「ああ……清水君。無事だったんだ」
 彼は寝そべったまま、のんびりした口調で、ちらっとだけこちらを見ながら微笑む。その言葉に、ぎょっとした。
「無事って、え、どういう事……」
「ううん、とにかく、大事故になってなくて、良かった」
 コイツ、何を言ってるんだ? 訳がわからなくて、たまらず聞き返した。でも安永は、元気な顔が見られて良かった、とだけしか答えない。何だか急に怖くなって、僕は逃げるようにその場を離れてしまった。

 家に戻ると、丁度母ちゃんは夕食の準備をしていた。
 味噌汁の匂いがこちらにも届いて来て、思わず僕は声を掛ける。
「今日のおかず、何」
「天麩羅。あ、そうだ邦ちゃん、ついでに向こうから新聞紙取って来てよ」
 言われて僕は素直に従った。トイレの隣の古新聞置き場から、一番上に積まれていた昨日の朝刊を手にする。そういえば、昨日の新聞は読んでなかったな、と思いながらふっと社会面を広げた。
 片隅のローカルニュースを見つけた時、僕は背筋が一気に凍りつく。
「これって……!」



 翌日、いてもたってもいられなかった僕は、朝一番で堤防に向かった。
 やっぱりアイツは居た――いや、朝も居るかまでは知らなかったから、居て良かったというのが正直な気持ちだった。
 何時もみたいに手を突き上げ目を閉じている安永の左隣に、僕はそっと立って、ブレザーのポケットから新聞の切れ端を取り出した。
 交通事故の記事だった。通っている塾のすぐ傍の交差点で、3トントラックが信号に激突したとある。時刻は夕方……僕が自転車で転倒したのと、あまり変わらない時間。
「ビックリしたよ」
 そう言うと、安永は広げていた腕を下ろし、黙ったままゆっくりこちらを見てきた。
「もし……あの時、あのまま塾に行ってたら……」
「それはわからないよ」
 僕の言葉を遮って、安永は声をあげた。
「あの場所であの時間にトラック事故が起こるなんて、単なる偶然だったかもしれない。だって、未来の事は誰も知らないんだから」
 彼はそう呟いて目を細める。その寂しそうな顔に、僕は息を呑んでしまった。返す言葉が無いまま身体を強張らせていると、安永は静かに続けた。
「もう、これ以上ボクには関わらない方がいいよ」
「えっ」
「清水君だって気持ちが悪いでしょ? さ、もう学校始まるよ。早く行って」
 安永は僕の肩を強引に押して、その場から追い出そうとしてきた。
「でも、お前は?」
「ボクの事はいいから」
 その彼の言動に、僕は強く心を揺さ振られた。

 ――コイツは、僕を事故から助けてくれたんだよな?
 多分、近いうちに何か良くない事が起こりそうな人を見つけた時、その人の大きな災厄を小さな怪我で救う事が出来るんだ。そういう不思議な力があるんだ、きっと。
 そして、それを、自分が身代わりになって受けているんじゃないか。僕はそう考えた。
 毎日、この場所で空から活力をもらってるって言ってた。それは多分、本当の事で、誰かの身代わりに受けた怪我や病気も、すぐに治せられたり出来るんじゃないかな……と、よくあるテレビゲームの話みたいな妄想を巡らせた。
 確かに宣之が言うようにオカルト染みた、おかしい話だ。信じられないのもしょうがない。
 でも、そんな不思議な力で色んな人を救っているのに、それが気持ち悪いからって避けられるなんて。
 僕は、安永を放っておくなんて、出来なかった。

 思い切って振り向いて、彼の手を取る。冷たい感触が僅かに硬くなった。
「お前も学校行こうぜ」
「……えっ」
「一緒に行くんだよ。何度も言わせんなって」
 強く引き寄せて、歩みを速めた。
「借り、何時か返させてくれよ。つっても、お前みたいに何か出来る訳じゃないけどさ」
 呟きながら、急に恥ずかしくなって、首を竦めてしまう。
 その時、僕は手をぎゅっと握り返された。
 見上げた安永の顔は、朝日を浴びて輝いているように見えた。