架空の死(投稿者B氏)



自分の心を篩(ふる)いにかける。

でもまだ私は上手に本心を選りすぐることが出来ない。

もうちょっと上手に自分の本音を引き出せるようになれた時、

きっと最後に残るのは「幸福を追い求める心」なんだろう。

そしてその本能的な心は、いつだって私の醜い感情の元凶だ。

だから自分なんか消してしまいたくて、私は理不尽な苦しみにのたうちまわる。

消したくても消せない。

せめぎあう。

せめぎあう。




「架空の死」




「コマ」の目は、最後に確認したときから180度傾いた時計の短針を捉えていた。

すでにとろとろに溶けきったような脳が叫ぶ。

『明日、テストだよ?』

うん、そうだね。

うん、そうだけど、なんていうか、そんな気になれない。




立川コマ 女。 

18歳で、受験生。

手の中にあるゲーム機のコントローラは、暖かいを通り過ぎてすでに汗ばんでいた。





三回呼ばれてやっと食べる気になった晩御飯は、あまりコマにとって魅力的ではなかった。

「これ、さすがねー。おばあちゃんのだからおいしいでしょ?」

そうやって、母の体内へ詰め込まれる肉じゃが。

「んー」

同じようにコマの喉にもイモがぐいぐい押し込まれる。

コマにはあんまりいつもとの違いが分からなかったけれど、

とりあえずまずくはなかった。






なんとなく晩御飯を残して、コマは自分の部屋に戻った。

「ゴミ屋敷」なんてのをテレビで特集してたりするけれど、

まさにコマの部屋はそんな感じで、ゴミやら漫画やら服やらが散乱していた。

ゴミの合間に見えるつけっぱなしのゲーム機から、不快な唸り声がしている。

ふとケータイを見ると、メールが来ていた。

送り主は、同じクラスの智子だった。

『コマは勉強すすんだぁ!!? ァタシ全然だヨ〜(>o<) へるぷみ〜!』

表示された能天気な文字の羅列に、しらける。

(嘘つけ、なんだかんだ言っていっつもテストの点いいじゃんか)

智子からのメールが、最近ウザくて困る。

困るってほどじゃないけど、なんか生理的に嫌。

彼女の存在が、自分の中にちょっとだけ残っている受験への焦燥感を掻き立てる。

生まれ出ずる不協和音に、顔が歪んだ。





翌日。

テストの出来は、まあやっただけのものだった。

本番直前に見たところが出たのはラッキーだったと思う。

帰り支度をするコマに、智子が声をかけてきた。

テスト難しかったね〜、と言いつつ、やけにテンションが高いところを見ると

ああ、コイツは出来たんだな、とすぐ分かる。

一緒に帰ろう、と言われたけれど、用事があるからと言って、

智子を避けるようにして教室を出た。






コマの家は学校から遠い。

おまけに途中にある坂がキツい。

「学校まで五分」とか言ってるヤツが本気で羨ましい。

三年間のチャリ通で培った太ももが憎かった。

何度となく見上げた空は、今日も泣きたいような青。

風がもう冷たい。

なんでこんなに一生懸命にチャリ漕いでいるんだろう、とコマは思う。



なんで皆、真面目に勉強してるんだろう。

なんで自分はゲームやっちゃうんだろう。

なんで自分は部屋を片付けられないんだろう。

なんで自分は友達を大切に出来ないんだろう。

なんで心は焦っているのに、心の奥底は焦っていないんだろう。

なんでなんでなんで…



奇妙に掻き乱されていく頭の中で、コマは意味もなく思うのだ。

「自分、死んじゃえ」

と。

その言葉は、それ以上でも、それ以下でもなく、

ただ、自分を否定するための呪文だった。

そして、自分が楽になるための。






家に帰ると、母に玄関に置いてある封筒を取るように言われた。

それは、コマ宛の封筒だった。

差出人の名は、ない。

空けていいものか一瞬迷ったが、空けないでいる理由もなかった。



「おめでとうございます。貴方は、『架空の死』を手に入れました」

丁寧に折りたたまれた紙に、ワープロの字でそう書いてあった。

「せっかく手に入った『架空の死』、是非満喫していただきたいと思います」

誰が読んでも、明らかに変な文章だった。

入っていたのはこの紙一枚だけで、

さらに下のほうにはもっとおかしな文章が書き添えられていた。

 「なお、『架空の死』は、自動的に発動します。
 
  慣れるまでには時間がかかりますが、命に別状はありません。」

何度読み返してもやはり手紙は同じ内容を語った。

どこの誰がどんな理由でこんなものを送りつけてきたかはさっぱり分からなかったが、

どうせどこかの宗教団体のものか、誰かのイタズラだろう。

そうは思いながらもなんとなく捨てる気になれず、

その封筒は、コマの「ゴミ部屋」の新たな構成物の仲間入りを果たした。


今日の晩も、ゲーム機は唸っていた。







そしてまた気がつけば朝は来て。

そしてまた自分は重い体を引きずって例の自転車に乗っけて、

そしてまた学校の門をくぐる。

そして、不本意な点を与えられてしまった可哀想な紙切れを受け取った。

あら嫌だ、国語の最低点更新。

一喜一憂するクラスメイトの声を耳の端に引っ掛けながら、

コマはひっそりと自分のテストの右の角を内に折り込んでつまらない数字を隠した。



いつから自分は、テストの返却がこんなにも嫌いになったんだっけか。

自分はもっと優等生だったはずだ。

もっと出来るはずだ。

なのに、なのに…



と、不意にコマに眩暈が襲い掛かった。

吐き気もだ。

ついでに頭痛と腹痛と熱と。

一生分の病気がいっぺんに体をむさぼり尽くすような感覚に陥る。

首を絞められたように息が苦しい。

何も見えない、何も聞こえない。

自分が、何か訴えるようにぱくぱくと口の開閉を繰り返しているのがかろうじて分かる。

苦しい、苦しい、苦しい、

助けて、死んじゃう、死…

死…?



その目に見えない『何か』からコマが解放された時、授業終了のチャイムが鳴った。

彼女に、今までにないようなすがすがしい感覚が訪れたのも、ほぼ同時だった。





数日後。

「ねえ、久しぶりにカラオケ行こうよっ」

声をかけてきたのは智子だった。

受験生の息抜き、というやつだろう。

行ってもいいかな、と思いながら、コマはふと「ある予兆」を感じて動きを止めた。

「ちょっと待って、先トイレ行ってくる…」

そう言って教室を出る友人を、智子は「もらすなよ〜」と

およそ上品ではない言葉をかけて見送る。





あー、来た。

ホント苦しかった。

コマは、用を足していないことを誤魔化すために、

水しかない便器をまた水で潤してから個室を出た。



何が来たか。

「架空の死」が来たのだ。



数日前の「初体験」により、ようやくコマは「架空の死」という言葉の意味を知った。

「死」の苦しみを味わう代わりに、自分の苦しみや辛さ、悔いなど、

人がおよそ味わいたくないと思っている負の感情を一定時間帳消しにしてくれるのだ。

意外にこれが便利で。

いや、便利だなんて本当に不謹慎極まりないのだが。



この「架空の死」のおかげで、彼女の頭の中は整頓されたように鮮明になった。



嫌なことがあると引きずって部屋の中に引きこもる癖のあったコマは、

それが解消されたことにより快活な性格になり、

乱れていた生活リズムが改善され、部屋もすっきりと片付き、

何よりすんなり勉強に手をつけることができるようになった。

これのおかげで全部が上手く運ぶようになりましたなんて

なんだかお決まりの通信教育の宣伝文句のようだが、本当なのだから他に説明のしようがない。



というより、これが本来の自分なのだ。

優等生で、完璧な自分。

どこかで手放してしまった、本当の私が戻ってきただけ。

「死」と引き換えなのだ、このぐらいかまわないだろう。



教室に戻ると、智子がいつもの笑顔でコマを待っていた。

そう、これが自分の望んでいた「幸福」なのだ。






「架空の死」を手に入れて数ヶ月。

コマの人生は今までの遅れを取り戻すかのように好転していた。

成績は上がるし、彼氏は出来るし、友人関係も好調だ。

本当にコマは高笑いが止まらなかった。

そして、高笑いしてしまうような傲慢な自分への嫌悪も、「死」と共に流れ去った。




一番コマが嬉しかったのは、有名私立大学の推薦入試に合格したことだった。

勉強からいち早く解放された彼女は、今だ受験戦争に喘ぐクラスメイトを

高いところから見下ろしていた。




「死」と引き換えに自分は人生の成功者になった。

そう、コマは思っていた。

ちょっと「死んだら」いいんだから。

軽い気持ちで、しかし本気でそう思っていた。






それは、突然のことだった。

『智子が自殺したって』

友人からメールで連絡を受け、コマは病院へ駆けつけた。

首をつってすぐのところを家族が見つけたらしい。

彼女は、今だ生死の間を彷徨っているそうだ。




(どうして…?)

智子は、自分と違って、素敵な人生を歩んでいる。

そう信じて疑っていなかったのに。

だからこそ、彼女に苛立ち、遠ざけようとしていたのに。

何で?




「ねえ、死なないよね、智子は…」

コマは、先に駆けつけていた友人にすがりついた。

「何で智子が死ぬの?」

コマは、「架空の死」の苦しみを代償にして幸福を手に入れた。

智子は、「本物の死」の苦しみを代償にして、何を手に入れようとした?

「智子、浪人…決定しちゃったんだって。
 
 死にたいって、言ってたのあの子。私、慰めたけど…駄目だったんだ。

 本人だって死ぬようなことじゃないって分かってたと思うけど、

 でもやっぱり辛かったんだよ、智子は」

そう言って、コマの目の前の友人は泣き出す。

浪人?

そんなの、聞いてない。

「あの子、ああ見えてプライド高いから、だから…」

だから、私には言えなかったんだろうか?



私が「架空の死」を代償にして手に入れたのは、本当に幸福だった?



コマは泣き続けた。

智子が死ぬのが嫌で。

驕っていた自分が嫌で。

驕っていた自分が嫌だという心が、

智子の死に対する恐怖や悲哀が、

「架空の死」によって自動的に帳消しにされてしまう自分が嫌で。




自分は、もう一度背負うことが出来るだろうか。

「死にたくなるほどの苦しみ」を、自分の肩に。






そしてコマは「架空の死」を手放した。

全てを受け止めて、生きるために。

死は何も生まないことを、悲しい形で知ったから。