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いつか、空を飛ぶ日まで(投稿者灯氏)


   いつか、空を飛ぶ日まで

 病院の屋上で、美月が空を見上げて笑顔を浮かべる。
「悠太くん。私、絶対に空飛べるよね」
「ああ」
 美月を見つめて、俺は大きく頷いて見せる。
 全ての願いを込めながら。俺の持つ、全ての力を込めながら。


 俺と美月は高校で出会った。
 初めて教室で美月を見た時、俺はしばらく目を離す事が出来なかった。
 春の暖かな日差しの中で、美月はまるで透き通って見えた。
 その髪も、肌も、手足も。何もかもが儚くて、近づくだけで砂のように崩れてしまいそうな気がした。
 美月は心臓が弱いらしい。自己紹介の時、からりとした笑顔を浮かべてそう言っていた。
「もしかしたら時々発作とか起こしてるかも知れないけど、ほっといてやってください。たぶんそのうち、けろっと復活してくると思うんで」
 その言葉はとても力強く、外見とのあまりのアンバランスさに、俺はなんだかものすごい衝撃を受けた。
 本人が言うように、美月は時々胸を押さえていた。廊下の隅とか、カーテンの影に隠れて。
 誰にも知られないようにと、出来るだけ気配を消して。
 その度に何故か気がついてしまう俺は、だけど何もする事が出来ず、側にいってやる事も出来ず、ただ見ているしかなかった。
 美月が無事に戻って来るように、笑顔でクラスの輪に戻って来るようにと願いながら。
 俺は根っからの体育会系で、昔からものすごく頑丈に出来ていた。
 そういう違いがあったからだろうか。俺は次第に美月に惹かれていった。
 美月の持つ心の強さに、もっと側で触れてみたいと思っていた。
 やがて柔道部に入部した俺は、それこそ更に丈夫になりながら毎日の部活動に追われていた。
 そんな毎日を過ごすうち、俺は次第に焦り始めていた。どうにかして、美月と二人きりで話をしたいといつも思っていた。
 そうなると、美月がひとりになる放課後を狙うしかない。
 そう思いつめた俺は、ある日とうとう部活をさぼった。先輩達にばれたらただじゃ済まなかったろうが、その時の俺は必死だったのだ。
 友人達と別れて、美月がひとりで校門を出た。
 それを確認した俺は、激しい鼓動を抑えながらこっそりと後を追った。
「あ、あの」
「え?」
 振り返って、怪訝な目で見上げる美月に向けて、俺は必死で言葉を続けた。
「あの、もし良かったら、俺と一緒に帰ったりしてくれないか?」
 しばらくじっと俺を見上げていた美月が、やがて小さく微笑んだ。
「いいよ」
 その笑顔はとても穏やかだった。そのおかげで、俺の気持ちも次第に穏やかになっていった。


 並んで歩いていた俺達は、いつしか自然に言葉を交わしていた。
 ほとんど初めて話をするのに、何故だか俺は美月の考えや思いがすぐに理解出来た。
 美月は結構聞き上手で、普段は口数が少ない性質の俺も、気がつけば色々な事を美月に向けて話していたりした。
 そのうち、俺達は小さな東屋に辿り付いた。
 大きな河を見下ろす、開けた土手にあるその東屋を指して、俺はさりげなく誘ってみた。
「ちょっと、座らねぇか?」
「うん、いいよ」
 頷いた美月がベンチに歩み寄り、腰掛けた。
 そしてふいに、俺を見上げた。
「ねぇ、悠太くんって呼んでもいいかな?」
「……も、もちろん!」
 またもや激しくなってきた鼓動を感じながら、俺は何度も頷いて見せた。
 その様子を見て、美月が再び穏やかに微笑んだ。
「悠太くん、誘ってくれてありがとう。なんか、とっても嬉しかった」
「俺も……」
 なんとか気持ちを落ち着かせながら、俺は言葉を続けた。
「誘いに乗ってくれて嬉しかった。ずっとあんたと話がしたかったから」
「そう……なの?」
「ああ」
 答えながら、俺は美月の前にあるベンチに座った。
「何でか分からないけど、初めて会った時から、ずっと」
「……そっか」
 少し照れくさそうな表情を浮かべた美月が、ふいに話を変えてきた。
「私の発作、何度か悠太くんに目撃されちゃってるよね」
「……知ってたのか?」
「うん」
 にっこりと、美月が笑顔を浮かべた。
「誰にも見つからないようにしてるのに。なのに顔を上げると、いっつも君が私を見てるの」
「……ごめん、側に行ってやらなくて」
「何で?別にいいよ」
 けろっとした顔で、美月が答えた。
「誰かに側にいてもらっても、発作が収まるわけじゃないし」
「そりゃまあ、そうだろうけど」
 なんだか複雑な思いで、俺は頭をかいた。
 そんな俺の顔を覗き込みながら、美月がふと、真剣な表情を浮かべた。
「それに私、君に気がつくだけで安心出来るから」
「え?」
 顔を上げた俺を見つめながら、美月が言葉を続けた。
「君が見てくれてるって思うだけで、何でか分からないけど力が沸くの。不思議と」
「そう……か」
 気の利いた事も言えず、俺はただ頷いて見せた。
「そうなの」
 答えた美月がふと立ち上がった。そのまま東屋の柵に近づいて、眩しそうに空を見上げた。
「ねえ、悠太くん。君は、何か夢とかある?」
「夢?」
 いきなりな言葉に戸惑いながら、俺は頭をかいた。
「……えーっと。今は柔道がめちゃくちゃ面白いから、それを極めたいって気がするな」
「極めるって?」
「ああ、いや。ずうずうしい話だけど……、日本一とか、世界一とか」
「あ、なるほど。それはまた、すごく悠太くんらしい夢だね」
 振り返った美月が、にっこり微笑んだ。
「出来るよ、君なら。君は、どんな夢でも叶える人だと思う。どんな事を願っても、きっと夢の方から近づいてくるような、そんな人だと思う」
 その言葉を聞いた俺は顔が熱くなってきて、思わず目を伏せた。
「……そんなに思いっきり誉められると、なんかどうしようもなく恥ずかしいんだけど」
「そっか、ごめんね」
 美月がくすくすと笑い出した。
 笑い続ける美月に向けて、俺は少し焦りながら言葉を掛けた。
「なあ、あんたの夢は?」
 笑いを押さえながら、美月が俺に目を向けた。
「私?」
 答えた美月の表情が、ふと寂しげに曇ったように見えて、俺は何だか不安になった。
 やがて美月が、いつも通りのけろりと明るい笑顔を浮かべた。
「私の夢はね」
 そしてくるっと背中を向けて、美月はその細い右腕を、力強く空に向けた。
「空を飛びたい。もちろん、自力で」
「……空?」
「うん、空」
「……自力で?」
「うん、自力で」
 驚きつつもなんだかぼんやりとしてしまった俺の前で、美月がふと目を伏せた。
「……私、負けたくないから。発作とか、病気とか。そういうものに、絶対負けたくないから。だから」
 振り返って顔を上げた美月が、まっすぐに俺を見つめた。
「だから、どうせならすごい夢を持ちたいじゃない。誰もした事がないような、とんでもない夢を持っていたいじゃない」
 言葉を切った美月が、俺の顔を覗き込んできた。
「……でも、やっぱり変かな?こんな夢」
「……いや、変じゃない。全然変じゃない」
 答えながら、俺は立ち上がって美月に歩み寄った。
「飛べる。あんたなら、いつか絶対に飛べる」
「……ほんとに?」
「ああ」
 俺は大きく頷いた。
「でも、もしあんたひとりの力で飛べなかったりした場合は」
「……した場合は?」
 俺を見上げる美月を見つめながら、俺はきっぱりと言葉を続けた。
「俺が力を貸す。俺が、あんたを飛ばしてみせる」
「……悠太くん」
 美月が呟いた。
「君が『飛べる』って言ってくれると、なんだかすごく信じられる気がする」
「おう、信じていいぞ」
「分かった、信じる」
 こっくりと、美月が頷いて見せた。
「ところでね、悠太くん」
「ん?」
 疑問の声を上げた俺を見上げて、美月が微笑んだ。
「私も、初めて会った時からずっと、君と話がしたかった。君と、一緒にいたかった」
「……そうか」
 やっぱり気の利いた事を言えずに、俺はただ頷いて見せた。
「そうなの」
 頷き返した美月が、ふいに抱きついてきた。
 心の底から驚きながら、俺は慌ててその細い体を抱きしめた。
 美月の体はとても暖かくて、触れている胸から確かな鼓動が伝わってきていた。
 その鼓動をひとつずつ数えながら、俺は抱きしめている手に力を込めた。
 このままずっと一緒にいられるように。そう願いながら。


 それから少しして、美月は入院した。


 どれくらい掛かる入院なのか、どれくらいの病状なのか。そういう事を、俺は訊いた事がない。
 ただ俺は、時間の許す限りこうして病院に通っている。
 俺の顔を見た時に浮かべる、美月の笑顔がものすごく好きで、ものすごく愛しいと感じるから。
 

 そして今日も病院の屋上で、美月が空を見上げて笑顔を浮かべる。
「悠太くん。私、絶対に空飛べるよね」
「ああ」
 美月を見つめて、俺は大きく頷いて見せる。

 
 現実的に考えて、美月が自力で空を飛ぶ事はないだろう。
 だけど。
 もし俺達が、ずっと一緒にいられたら。
 もし俺達が、ずっと先の未来を一緒に過ごせたら。
 そうしたら、俺は絶対に美月の夢を叶える。
 そして俺も、美月と一緒に空を飛ぶ。

 
 空を見上げる美月の横で、俺はその手を握った。
 照れくさそうな笑顔を浮かべながら、美月が俺の手ごと自分の手を持ち上げて見せた。
「すごい。なんか、これだけで力が湧いてくるよ」
「……そうか」
 どうしても気の利いた事をいえない俺は、美月から目を逸らして、光が溢れる空を見上げた。
 そして、美月の手を改めて強く握った。

 その手に、全ての願いを込めながら。俺の持つ、全ての力を込めながら。



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