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舞い降りるもの(投稿者なりや氏)


 唐突に、予期せぬ時に、幾分かの厄介ささえはらんで、舞い降りてくるものがある。

「うわ、痛ってえ」
「痛いのは俺だっての」
 覗き込んでくる視線の主が声を上げ、俺は言い返す。
 さっきまでやってた体育の授業のサッカーで、肘を擦り剥いた。授業の間は大したことないと適当に払って放っておいたけど、今見てみると結構派手にやっちゃってる。
「サッカー部が授業ごときで本気出すなよ。スライディングなんかしやがって」
 軽く頭を小突かれる。うるさい、俺はいつでも本気なんだ。
「こっち向けんなー、汁出てるって汁ー」
 別の奴は、大声で言ってちらっと見ただけですぐに目をそらした。結構酷い見た目ではあるな。とどこか他人事のように思ってる俺がいる。勿論痛みはあるけれど。
「大声で言いふらすな、別に大したこっちゃねえよ」
 わざと傷口をそいつの方に向けてやって、負けない大声で言い返した後、ティッシュペーパーで軽く拭おうとしたところに、ぶしゅっ、と音を立てて液体が吹きつけられた。
「……痛ってえ」
「うん、しっかり消毒した方がよさそうだよ」
 消毒薬の白いプラスチックボトルを右手に構え、左手にはガーゼ。いつの間にか俺の側に立ってる小柄な女生徒は、席の遠いクラスメイト。
 じわじわと、傷口に染みていく消毒薬。机の上に滴り落ちるほど吹きかけられた。
「森島」
「何?」
 呼ぶと、怪訝そうに俺を見た。理由は違うけれど、俺も今怪訝そうな顔つきになってるだろう。
「森島は、救急箱でも持ち歩いてるのか?」
 何で、消毒薬まではともかく、ガーゼまで持ってんだよ。ここは普通の教室だぞ。

 笑って、違うよーと言った後、一度ガーゼで傷を拭って、また消毒薬を吹きかけてくる森島。
 通学の時に持ってる、大きなリュック。小柄な森島が持ってるのはちょっとアンバランスな印象。その中から、別のガーゼと、白い紙製のテープを取り出す。
 リュックから取り出したものを使って手際良く俺の肘を手当てして、森島は今度は満足そうに笑った。
「森島は、保健委員だったか?」
「違うよ」
 じゃあ何でこんなに色々持ってたり手当ての手際が良かったりするんだろう。
 消毒液で洗うみたいにされた傷からは、残ってた泥とかが綺麗に取り除かれて、綺麗なガーゼを当てられ、それを白いテープで止められる。
「肘だし、外れちゃいそうだからね」
 森島はまたリュックの中を探った。湿布を貼った後にかけるような白いネットまで出てきて、驚かされた。
 
 何でこんなもんを色々持ってるんだ、森島は。
 俺の疑問は、ほんのちょっと、意識的に森島を見ていれば簡単に膨らんで、訊ねずにはいられないほど大きくなって、訊ねてしまえばすぐに答えが出るものだった。その日の内に。
「森島ー、ボタン取れちゃった。裁縫セット貸してー」
「はいよ」
「痛てっ、指切った」
「はい、バンソウコウ」
「フデバコ忘れたあ」
「あ、予備のやつ貸したげる」
 一日どころか半日も経ってない。長くはない時間、何かを言われる度に、あの紺色の大きなリュックの中からゴソゴソと何かを取り出してみせる。
 それに、大抵のものは、森島はニセットずつ持っている。リュックに入っていなければ、下足室のロッカーに入っているのだ。辞書とか資料集とか。そんなものまで?と思うものが、二セットずつ。
「……四次元ポケットか、ばくさんのカバンか……」
「え、何?」
「森島のリュック」
 言うと、森島は声を上げて笑った。元々森島はよく笑う。そのことは以前から知ってはいたけれど、こんな便利屋というか、雑貨屋みたいな面があるのは知らなかった。
「だって、何かあった時に必要なものが手元にないのって、すっごい不安なんだもの」
「だからって、辞書まで二冊ずつ持ってるのか?」
「忘れた時の予備なの」
「でも、森島、忘れ物なんかしないだろ。必要なものが手元にないのが不安なんだったら、夜寝る前に次の日の用意を完璧にやるだろ。森島って、そういうタイプだろ」
 見たまま想像して言ってみる。到底忘れ物なんかしそうじゃない用意周到さがあるとしか思えない。そうじゃなきゃ、こんなに色々持ってないだろう。
「んー、当たってるかも。でもさ、よく言うでしょ、『備えあれば憂いなし』って。誰かの役に立つならなお良し、って感じでね」
 その笑顔。
 嬉しくてたまらないとまではいかないけど、強い引力のある笑顔。
 笑い声はよく知ってる。同じ教室に居れば、一日に一回は絶対に聞くから。うるさいと思うわけでもなく、自然と耳に入って、意識していないからそのまま反対側の耳から出て行ってたんだろう。これといって特に感想を抱くもんでもなかった。よく笑ううるさい奴なら他にもいっぱいいる。
 ちゃんと笑うところを見たことはなかった。表情を目で追う程には、俺は森島に関心を持っていなかったから。
 今、目の前にいる森島にしっかりと視線を固定して、見つめる。俺がじっと見ても笑顔は変わらない。
 心臓が、やけに強く打った感覚。
 急に、訊いてみたくなった。
「いつでも、もしもの時に備えてる?」
 訊ねながら、見つめたまま、視線は動かさない。小柄だけど、エネルギー量は多そう。そういうイメージ。
「うん。用意できてるのとできてないのじゃ、全然違うよ」
 笑顔。目の前で、自分に向けられている。今は、自分だけに。
「じゃあ、不意打ちは苦手なんだ」
「割とそうかも」
 目が大きい。顔の中でかなりの面積を占めてるように感じるほど。瞳には今、俺が映ってる。
「準備が出来てないと駄目なんだ?」
「……そう、かな」
 訊ね続けると、森島の表情は段々と、疑問を持つような、考え込むようなものに変わっていく。わずかに笑みを残したまま。
 訊ね続けながら、自分の中に一つの結論が舞い降りてきたのを、確かに感じた。

 そんなきっかけで、こんなふうに、多分、望む望まないに関わらず、あっさりと。
 舞い降りてきて、掻き乱して、翻弄して、虜にする。

 用意なんかしてたわけがない。こんな風に会話するのも予想外。その要因になった肘の怪我だって、しないで済むに越したことはなかった。
 でも、もう、俺の中にすんなり着地して、しっかり根を下ろしてしまった。
 何かが舞い降りてきたという事実に気づけたなら、舞い降りてきたものの正体に気づくのは簡単だった。目の前の存在が、今までの、景色やその他大勢なんかとは違うものに、呆気なく変わってしまった後では。
 どうしても言いたくなった。今すぐに。
 俺を見上げてくる森島の目をまっすぐに見たままで、ゆっくりと息を吸う。
「今俺が、森島に好きだって言ったら、やっぱり用意できてないから困るのかな」

 一瞬でも、恋はできる。
 結末がどうなるかはともかく、この一蹴りで、舞い降りたものは転がり出した。
 ……いきなりシュートしたようなもんかもしれないけど。
 今は、驚いたように見開かれて益々大きくなった目を覗き込んだまま、目をそらされずにいる状態。
 一瞬後にはもう負けが決まってるかもしれないけれど、結果がわかるまでは、俺が今確かに蹴ったボールの行方を見守ることにしよう。


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